2016年4月22日金曜日
昼前からベビーカーに乗って散歩をする。さわやな風に眩しい日差しが勝り日陰が涼しくてきもちよくかんじるような 気候だった。
日なたがつづく道を歩いていると、ひだり側に木のおおきな木陰をみつけた。葉っぱや枝が協力しあって、ここどうぞと用意してくれているかのよう。すーっとそこに近づいていくと、葉のあいだからもれるひかりが道に瞬いている。なまえのないかたちが足下でゆれている。10歩くらい歩いたら日なたに出てしまうそのくらいの木陰なのだけれどちいさな宇宙みたいで、満天の星空をみつけたときみたく興奮した。天然のエレクトリカルパレードみたいだなーなんて思った。なんだろう、天然のエレクトリカルパレードって。
わたしのすきなラクウショウのあたりを赤いとんがりがならんでいる。枝を切ったりするのだろうか。ラクウショウに生きるんだよと手を当てる。このごろはあまりしなかった薫りがむわっと薫った。
のんさんが生まれてから話すときにつかうものは、言葉だけじゃないんだなと思った日があった。ラクウショウは薫って話す、桜は散りながら話す、のんさんはからだをばたばたうごかしながら声を出してわらって泣いて話す。
切られた枝をごみ回収車にいれていた。土に還るものは機械が似合わない。職人の行うそれではない 枝の剪定後のすがたはイビツ。うつくしくなくてかなしい。やっぱり愛だよなーと思う。ラクウショウがげんきでありますように。
草の上にすわらせてみたら、目の前のたんぽぽが気になるけれど、うまくうごかせなくて前のめりになっていった。草をにぎってむしった。草をむしることもできるようになったのか、と感動する。
いちど家に帰り、のんさんはお昼寝。
そのあいだに、何度も書き直しているてがみをようやく書き終えられた。
起きてからいっしょに出しに行った。のんさんが生まれる前、ほぼ毎日さんぽしていたころは冬至前で14時くらいには夕方の日差しになってしまっていたから外出にはタイムリミットがあった。それが16時頃にそとに出はじめようなんて思うのだから、日が伸びた。ちいさな緊張が和らいですこし開放的なきもちになる。だから夏ってすき。
そのまますこし歩きたかったのと、旬なやさいに出会いたくなって、ふらっと知人がはじめたばかりの八百屋さんまで歩くことにした。そこでおいしそうな長芋などを買う。おまけにアスパラガスととまとをいれてくれて、小松菜はタダにしてくれた。出かけた先に話せるひとのいるうれしさよ。そして、タダになることではなくて、おまけしてくれるような余白というか空き地みたいな部分にうれしいきもちになった。八百屋さんや豆腐屋さんが比較的ある町に住んでいるのだけれど、挨拶したりのんさんに話しかけてくれるひとはとっても少ない。それがなんだかさみしいことだとのんさんが生まれてから思うようになった。挨拶したり、買い物しながら食材のはなしをしたり、赤ちゃんに挨拶してもらったり、そうできる場所がひとつふえてうれしい。またゆきます。
夜ごはんは、蕎麦サラダ(とろろ、小松菜、人参、葱)、厚揚げとやさいのカレー(舞茸、小松菜、大根、玉ねぎ、人参、ごぼう、にんにく、しょうが)、蕪の葉としらすの煮浸し、ごはん。
長芋をつつんでいるおがくずのようなものはなんだろう。ラクウショウの実のようないいかおりがした。
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