2016年7月24日日曜日

221 いるかとかっぱ

2016年7月24日日曜日


きのうまでひんやりとしていた。長袖のシャツを着ていても肌寒さをかんじるような気温で、いまは何月だっけと忘れてしまいそうになる。

きょうはお日様がのぼってあたたかい。「ひさしぶりー」と特別挨拶するわけでもなく、すみませんなんていうきもちもなく、きょうはのぼってみたよとからっと笑っているみたいにそこにいる。


きのうは、はじめて亡くなった方と会った。どういう言い方が適切なのかわからないけれど、かんじたことを記しておきたくて日記を。

わたしが生まれる前から両親との付き合いのあるひと。わたしからみると、会った記憶はぽつりぽつり。でもほそい糸がずっとつながっているような、いることが両親くらいにあたりまえだったと思いかえすと思うひと。幼いときからずっとみつめてくれていたのだと思う、あのやさしい瞳で。 口調はやわらかくない。口達者な母のことをしっかりみて怒ってくれるのがこのひとと奥さん。ふたりは必ずわたしの味方だと言ってくれる。

たしか小学4年生のとき、友達のお母さんが亡くなってお家に行ったことを覚えている。亡くなったお母さんと会っているのかどうか覚えていないけれど、わたしの身の回りでだれかが亡くなるというのはそれ以来だ。

この前会ったときと変わらないような、ふらっと出かけるような心持ちでその方のいるところへ向かった。悲しいでもなくて、寂しいでもない。こわいでもない。まだそんなきもちになれるほどの実感ないのだなと、この日記を書きながら思った。


お布団に眠っていた。流れる空気も湿っぽさはなくやわらかく適温。みんなは眠っているみたいだねと話していたけれど、やっぱり眠っているのとはすこしちがった。しっかりみつめておこうと思ってじっとみつめた。すこし青白い肌、細くて先がするっととんがって下を向くような、植物のツタのようなお鼻。こんなにきれいだったのかと思った。わたしはこんなにしっかり見つめたことがなかったのかもしれない。その方のおかあさんはきらきらとした瞳でのんさんとお話してくれた。お母さん似であるそのひとは、たしかこんな瞳だった。

「やっぱり触るとつめたいんだよ。」触ってもっと近くからも見つめて目に焼き付けるべきだったと思う。そこに漂うさまざまなきもちや気遣い、手前の薄い膜みたいなものに気をとられて大切な奥の方を置いてけぼりにする。そして、「ああ、」と思い出したりする。いまそんなきもちだ。

丁度いま読んでいる吉本隆明さんのフランシス子の内容、書かれていた言葉が重なってくる。中間。どちらかでもないし、これというぴったりもない。ということをしっかり持って。このきもちも持ったまま歩もうと思う。
こんなふうに日記にしながら。


喋らなくてもそこにいるそのひとを焼くということ。じぶんで手渡すその瞬間のきもち。ああ、。


夜ごはんは、南瓜と人参と大根の梅くるみ和え、たらこスパゲッティー。

食後、2階のふたりが来てくれて、帽さんの20代のおわりに語らう。

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