2016年10月28日金曜日

三一七

二〇一六年十月二十八日金曜日


曇りのち雨(ひえびえ)

一枚羽織物をふやすような気温と昼過ぎからの雨。こんな日は、あんこを煮たり、ことこと時間をかけて煮る料理にうってつけ。きのう作り逃したおでん、つくるにも、たべるにも、よきコンディション。

朝ごはんを食べて、出汁をとる。唇が痛すぎて、化粧水もなくなってきていて、いつもの自然食品のお店にどうしてもきょう行こうというきもちになってしまっていたので、お昼ころ出発。ちょうど雨が降りはじめた。銀色の傘をさしておおきなマフラーの端っこを結びポンチョのようにしたものをのんさんと二人でかぶり、公園を歩く。ひとはぽつりぽつり。雨音かのんさんの声、足音くらいしか聞こえない。こんな公園を歩くのもときにはいいなと、足どりは軽やか。

リップクリームははじめてみたものにしてみた。青いパッケージのペパーミントの香りのもの(使ってみたら、しっとりとってもいい。ベリグ。)。化粧水はビワの葉エキスのもの(しっとりよいかんじ。様子みる)。

帰り道、のんさんがお喋りするのをまねるようにして、返してみた。
の(んぱっ)
ぽ(じゅじゅじゅー)

の(っで!)
ぽ(ディディディ)
こんなふうに話してみたら、のんさんはげらげらうれしそう。そんなに!というくらい。のんさんのうれしそうな顔がうれしいのと、会話ができているたのしさに、いくつもの濁音混じりの音を発して、のんさんとおはなしをした。喜ぶ音、あまり反応のない音があった。ときには拍手までしてくれて、わらっちゃった。

そこに意味はないのだけれど(わたしとしては)、音で十分に会話ができていた。そう、それは音楽のセッションのようなもの。まさにそんなもの。
わたしたち大人はまるでじぶんたちだけが言語を持っていると思い、じぶんたちの言語で話しかける。けれども、もしかしたら生まれたばかりの子どもも、ある言語を持っているのかもしれない。はじめはのんさんたちもじぶんたちの言語で喋っているけれども、大人によせて言語を習得してくれている、そしてじぶんたちの言語を失っていくのかもしれない。なんだかそんなふうに思った。

わたしものんさんがのんさんの言語を喋る短い期間、のんさんの言語で喋ってお互いの言葉でお喋りしよう、そんなことを思ったのだった。


帰ってからのんさんがお昼寝。あたまをくるるるるーっと回転させて、いまだーとおでんの仕込みをした。
・ゆで卵をつくる
・鰯のつみれをつくる(玉ねぎ、生姜を刻む。鰯をたたく。*葱がなかった)
・ゆで卵ができたら同じお鍋で、こんにゃくを下ゆで
・おでんのスープの材料を鍋にいれ火にかける
・じゃがいもを茹ではじめる
・大根、厚揚げ、がんもどき、ちくわぶを切る
・じゃがいも、はんぺん以外を鍋へ
ここまで行ったらのんさんが起きた。ほとんどやりたいことはできたので、ふーっ。
具が入りきらないので、いつもは米を炊いている無水鍋を空にして移し、さらにことこと。
火にかけてしまえば、もうすいすいすー、である。

夜ごはんは、おでん、ごはん。
弱火で三、四時間煮たので、煮崩れはなくしみしみ。のんさんは厚揚げの豆腐の部分を拍手してたべた。ほくほくなきもちでわたしと乾杯である。
職場の飲み会から帰った帽さんもおかわりしてよくたべた。

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